元日であるが、従来の生活様式を変えない超早起きテレビっ子の父は、朝の5時前から録画していた海外ドラマを居間で観ている。そんなことがなんでわかったかというと、居間の真上の部屋でわたしは寝ていたから。寝なおそうと思ったけど、無理だったので起きる。あけましておめでとうございます。
朝は雑煮とおせち。わたしにとって元日は、ああ、わたしは数の子が大の苦手だったのだと思い知る日なのであった。年に一度、ひと切れしか食べないから、あと364日は数の子のことなどきれいに忘れているのだ。なにがダメって、それ自体にうまみはないし、あの歯ざわりがきゅっきゅするのがダメだし、噛んでいるときの音、これがまたいかん。他人が噛んでいる音さえ聞いていたくない。そして、どれだけ噛んだら飲み込んでいいのか判断できないのも腹立たしい。好きな人がいたらお目にかかりたい、と思っていたら、すぐそこに母がいた。好きなんだって。
午後、川の方へ散歩に出る。(散歩記事はこちら→ 「川のほうへ――正月散歩(前)」 )
2日(土)
今日の散歩は山の方へ。(散歩記事はこちら→ 「山のほうへ――正月散歩(後)」 )妹家御一行様、わたしが散歩に出ている間にやってくる。
姪っ子どもにお年賀の絵本を与える。姪っ子2(2歳)は 阿闍梨餅に夢中で、こちらを見もせずに片手で受け取るので、妹が「2ちゃん、あんた練習したんねーか、こうやって(両手で受け取る仕草)『ありがとうございます』って……」と呆れているが、まあこの年頃は複数のことを同時にはこなせんだろう。餅食ってるときに渡したわたしが悪い。
そして受難の時が来る。まずは「なんかキラキラしたDVDを見続けさせられる刑」、そして「姪1(L)と姪2(R)がそれぞれ勝手な歌うたっててステレオ状態の刑」、さらに「絵本読んで~(エンドレス)の刑」に次々と処せられた。帰省するにあたり、「こんなに読めないだろう」と思いつつも、そこは悲しい性で本を10冊持って帰ってきたのだが、もしかすると1冊も読めないかもしれない(自分用は)。
3日(日)
朝飯食べてから、姪っ子どもの散歩につきあって、近くの神社へ。姪っ子1(4歳)に尋ねられて、木にとまっている鳥はシジュウカラ、青い実のなっている草はリュウノヒゲ、と名前を教えた。つぎに会うときまで憶えているだろうか、と某呟き処で呟いたら、「あの年頃は、こちらが忘れている妙な事まで覚えている事がありますから、もしかしたら……」と返信をいただく。そうなんだよなあ。あ、それで思い出したが、姪っ子2の「おならうた」の擬音(→ 「日々雑記 2015 Nov. #1」 11月6日の日記参照 )の実演を見たのだった。まさにあのとおり、
妹 「いもくって」
姪2 「ぶ」
妹 「くりくって」
姪2 「ぼ」
だった。字はまだ読めないので、耳で完全に覚えたのだな。幼児はすごい。
妹家御一行様は昼過ぎに帰って行った。それはそれは静かになった。
父 「正月も終わったな……」
あの、まだわたし残ってますのですが。
4日(月)
本の買い初め。
パソコンの本は母用。ちょっと恥ずかしいので、自分用でサンドしようかと思ったが、大きさ的に無理だった。ダシール・ハメット『マルタの鷹』、これにはちょっとした思い出がある。学部3回生のとき、わたしは英語学ゼミに所属していて、夏休みに「200ページ程度の本を一冊選んでなにかやれ」という課題が出たので、The Maltese falcon に頻出する無生物名詞の属格について書いたのだった。教授には褒められたけど、それはたぶんほかのゼミ生とぜんぜん違うことやってたからだし、だいたい「無生物名詞の属格」をテーマにしたのだって、一冊の本に登場する数がかなり少ないはずなので、みんながやってるみたいに何百というサンプルを集めて分析しなくていいというヘタレな動機だったわけで、「このテーマで卒論を書くといい。 ほかの小説や、新聞・雑誌なども分析対象にしてやりなさい」と激励していただいたけれども、正直そんな根気はなくて、だから英語学向いてないなと思い、学期の終わりに「文学ゼミに変わりたいんですが」と申し出たのだった。教授はこころよく送り出してくれた。ようでいて、酒飲むたびに、「キミは僕のゼミを出ていったんだったね……」と絡んでこられるのが恒例であったが、そんなことはどうでもよろしいですね(ひどい書き方だけど、とてもとてもいい先生なのです)。あの夏、さんざん読んだ小説を、まあ、なんだか懐かしい作品にまた出会った気がして買ってしまったのだ。もちろん、ポール・オースター『オラクル・ナイト』(柴田元幸 訳 新潮文庫)をちょこっと読んだ影響もある。
光線 (文春文庫)
村田 喜代子
マルタの鷹〔改訳決定版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ダシール ハメット 小鷹 信光
オラクル・ナイト (新潮文庫)
ポール オースター Paul Auster
夕方、餅を少し持たせてもらって、帰る。正月休みは今日で終わり。明日から通常モード。
5日(火)
出勤してしばらくしたら、のどが痛くなってきた。実家の人々及び姪っ子2は風邪が治ったばかりということだったが、治ってなかったんじゃないのか。全員ときどき咳きこんでたし。今月は寝込むわけにはいかんので、昼休みに風邪薬を買って飲んだら、猛烈な眠気に襲われ、作業中何度も落ちて、変なキーを押してたり、考えられないようなミスしてたりしていてさあ大変。成分表をよくよく見たら、無水カフェインが入ってない。日中飲めないなこれ。いやそれより、仕事終わってから、文博に山中貞夫監督 『河内山宗俊』(大傑作)を観に行くのだけど、起きていられるだろうか。と心配だったのだが、あにはからんや、ばっちり起きていられた。仕事とは取り組む勢いが違うようで、なによりであった(いや問題だろうよ)。
6日(水)
今日は休みなので、18きっぷで岡山方面へ。久しぶりに吉備津へ行ってみようと思ったのだ。神社用の御朱印帖は吉備津神社で購ったのだった。見てみたら「平成十六年八月二日」とある。そんなに前だったのか。ということで、12年の歳月は吉備津をどう変えたのか、という壮大なテーマに挑む野心作!などわたしがやるわけないじゃないですか。まあ、いつもながらの珍道中をなんぞ書こうとは思っておりますです。
7日(木)
やっとこさイスマイル・カダレ『夢宮殿』読了。これはかなりいい。著者のほかの作品も読みたい。
8日(金)
今日は18きっぷで遠出できる最後の機会なので、熱があるようなのは気のせいということにして、朝まだ暗いうちに家を出て、名古屋へ。美術館2館をハシゴしてきた。これはいずれ書くつもり(またか)。しかしこれだけはいっておこう。ヤマザキ・マザック美術館(企画展や一部作品は不可だけど、館内及び作品の写真撮影可という素晴らしい美術館)で開催中の「ルネサンスからルオーまで 聖なる風景」、ジョルジュ・ルオーの「ミセレーレ」がとんでもなく素晴らしいので皆見るように。この企画展の呼びものの、ムリーリョの「アレクサンドリアの聖カタリナ」も、それはそれはよいものなんだけど、ルオーが強烈にいい。この企画展、とてもいいんだけど図録もポストカードもないから(開催館所蔵作品、及び「聖カタリナ」等一部作品は所蔵館のポストカードを売っているけど、「ミセレーレ」のはない)、網膜に焼き付けておくように。あと、アンティークオルゴール実演、これは係員の方の説明がすごく面白くて勉強になるので、時間があればぜひ聞くように。
館内の様子。
9日(土)
今日から6連勤。連休って、なんですか? それはこの地方にもありますか?
風邪はひどくなりもしないが、治りもしない状態が長く続くやつらしい(貰った先からきいた)。それとは別に、頭痛がひどい。これは風邪と関係ない、いつものやつ。
読書メーターに『夢宮殿』の感想を書いた。以下引用。
粗筋から、政府が機械かなにかで国民の頭の中を覗いて管理するのかと思っていたが、読んでみたら自己申告制だった。しかしこっちのほうが実は怖い。人は目覚めると次第に見た夢を忘れてしまうし、夢を言葉にする段階で、覚醒した意識による補完・再構成は避けられない。夢自体が不確かなものであり、言語化され た夢は純粋性を保てず、夢の解釈は恣意性を免れない。そんな不確かで不純なものを拠り所に国は動き、人の命も左右される。そんな理不尽な世界にあって、 「なぜ?」という疑問には一切明確な答えは与えられない。末尾は美しいが救いはない。
書ききれなかったことをコメント欄にて。
カフカがよく引き合いに出されるが、息苦しいような世界を描きながら、ユーモアがあるところはたしかにカフカっぽい気がする。ドアの取っ手ばかり見ている 高官とか、一旦下した解釈が心もとなくなって、慌てて一語付け加えて意味を逆にしてみたりするところとか、てっきり処罰されるものと思い込んで、昇進を告 示されているのに話ぜんっぜん聞いてない主人公とか、読んでてニヤニヤしてしまった。
それでも書ききれてない、なんだかモヤっとした感じ。まだなんかいうことあるぞ、という感覚が残るのも、この本ならでは、という気がする。
夢宮殿 (創元ライブラリ)
イスマイル・カダレ 村上 光彦
10日(日)
本日の弁当。
白ごはん、焼き塩鮭、大根醤油漬け、甘辛ごぼう、ピーマンとにんじんの胡麻和え、その辺にあったものを手当たり次第に入れた味噌汁。早く起きたわりに、手が込んでないのは、この先の連勤に余力を残すためではない。ではなんなのかは、本人にも不明。ゆえに問うなかれ誰がために鐘は鳴るやと。其は汝がために鳴るなれば。ってなにいってんだ、ジョン・ダンは。いやジョン・ダンじゃねえ、ワシだワシ。
おら、3日待ったぞ!
返信削除すごい待ったぞ!
『夢宮殿』か…イスマイル・カダレ…知らぬ…世の中知らないことばかりで死んでいくのだなと思う今日この頃。常に病んでいるわたくしは夢というものがそもそも言語なのだということを強く感じています。言語を再言語化するならそれは恣意性は免れないか。ということはイメージはどっから出てくるのか。あんまり考えないでおこう。まあ、言語→イメージ→言語→国家が管理して支配する、ということなのかしら。味付けがユーモアなディストピア小説なのかしら。
あなた面白い本ばかり見つけてくるわね。あたしは武田泰淳とか石川淳とか読んでるわよ。ほぼ修行の域よ。レポート出さなきゃいけないの。ついに文学部の専門科目に挑戦するのよ。応援してね。
…ごめんなさい、また最後にはオネエ言葉になって終わってしまったわ…。最初は「おら」で始めようと決めていたのだけど持続するって難しいのね…。また再チャレンジさせて!
ともすけ先生、コメントありがとうございます。
削除待たせてごめんね。ワシもちょっと今しんどくて、なかなか……1ヶ月待たせた人もいるんですよ。まあ、そもそも待っておられはしなかったかも。でも先生の記事にコメントはしに行くよう。もうちょっと待っててよう。
夢はたしかに言語かもしれないです。イメージかもしれない。それはわからない。ただ、それを覚醒時の意識で再構成したものは、もとの形ではありえないだろうと思っているのですが。「味付けがユーモアなディストピア」、それですね。大笑いはできませんけどね。そこはかとないおかしみはあります。
武田泰淳、石川淳、いいじゃないですか。わたし石川淳の「無明」って短編が好きですよ。文学の専門科目にチャレンジとな!がんばってねー!
持続が難しいってことは、あなたソレ、体質じゃないのかしらね。オネエが。
「3日待った」って、ああ、ごめんなさい、自分の発言いま思い出した! 「微調整繰り返すから、アップしてから3日後に読んで」って呟いたのでした。健忘症かしらね。
削除あたしなんてね、机の上に密林から来た荷物が置いてあってこれはいったい何だろう…と開いてみたら、デビッドボウイの「★」だったのよ!健忘症なら負けないわよ!
削除なんの勝負よ(笑)。
削除まあ!「★」!うらやましい……ちなみにわたし、次回更新の日記(いま書いてるやつ)は冒頭デヴィッド・ボウイばっかりになりますね。仕方ないけどねえ。