12/21/2024

わたしの一冊 塚谷裕一『ドリアン ― 果物の王』

既成のメロディーに勝手な歌詞をつけて歌う癖があり、昨晩は風呂で「アンコ椿は恋の花」の節で「ファイト~オオオクラブ~はあ~アアア ファイト~クラブ~は アアン アアン アアンアアッ」まで歌ったものの後が続かず、モヤっとした気持ちを抱えたまま風呂から上がった麩之介です。皆さまいかがお過ごしですか。「アンコ椿」の「アンコ」、小豆とは無関係だそうですよ。


※これは某所でフォローしている方が作成されたアドベントカレンダー 「私の一冊」 21日目の参加記事です。


紹介する本、どうしようかなー、まだ時間あるし、ゆっくりやろっと……などと考えている間に体調を崩して寝込むなどして、ギリギリになってやっと決めたのがこれ。



わたしの住んでいる地では、年に三回大きな古書市があり、時間が許せば必ず覗きにいくようにしている。いつだったかの古書市で、なにげなく手に取った本の一冊がこれだった。

わたしは草木が好きだ。姿を愛でるのも、食べるのも。だから我が家には野の草や樹木に関する書籍がそれなりにある。しかし、産地(東南アジア)に行くか高級青果店で買うしか食べようがない果物ドリアンには、わたしはまったく興味がなかった。だから「お、塚谷先生の本」と思わなければ、この本を手に取ることはおそらくなかっただろう。

わたしが教わったこともない著者をつい「先生」と呼んでしまうのは、著者が植物担当で出演されているNHKラジオ第二放送の『子ども科学電話相談』を長年愛聴しているからなのだけど、じつは著者の本とはそれ以前に出会っていて、好きなラジオ番組に出演されると知ってなんだかうれしかった。はじめて読んだ本は『漱石の白くない白百合』(文藝春秋社)で、植物が好きな文学部文学科(英文学専攻だったけれども)の学生だったわたしが、その本と出会ったのは必然だったのだと思う。

話を戻して、ドリアンにはいっさい興味のないわたしの目にまず飛び込んできた話題は「ドリアンは臭くない」である。縁の薄い者が「ドリアンといえば」でまず頭に浮かべる偏見が見透かされておるわ。はは。ああ、そういえば著者の別の本、これも文学がらみなのだが、『果物の文学誌』(朝日選書)には、デパートで「このドリアン、臭くないけど、おかしいんじゃないか」と店員に難癖をつけているおじさんを目撃したという逸話があった。それほどまでに「ドリアン=臭い果物」という偏見はわれわれに染みついている。ただ、実際に臭いドリアンはある。それで面白かったのが、産地のドリアン売りと、こわいもの見たさ(臭いもの嗅ぎたさ?)で来る観光客の話。
 まず第一に、おいしいと感じるには、それが当たりのドリアンでなくてはならない。私の初体験の時がそうであったように、古いドリアンは、ドリアン好きにとっても確かに臭い。だから後で述べるように、現地では皆、どれがおいしいか、一生懸命外から見極める努力をしている。そんな時、「ドリアンは臭い」と思いこまされた一見の観光客がふりで現れたとしよう。どう見てもこれはいいカモである。ドリアン売りも商売だ。好きで買いに来る地元客がはねるような、本当に臭くて売れそうもない、どうしようもないドリアンを押しつけようとするのは、当然である。これは決して悪い話ではない。これでこそ買い手も売り手も、妙な話だが利害が一致するわけだからだ。「ほらやっぱり臭かったね」と。
(p. 6)
不幸なWin-Win(?)である。かくして「ドリアンは臭い」は世にはびこるのである。

つかみはオッケー、ドリアン界にまんまと引き込まれたわたしは、1章で食べ物としてのドリアン(おいしいドリアンの見分け方から売り手との駆け引きの仕方まで)、2,3章で植物としてのドリアン(生態から鉢植え栽培のコツまで) ― ここでわたしは懐かしい名前に出会うのだが、その話はまたいつか ― と読み進んだ(その合間にドリアンだけでなく、分類学の基本的な約束事などもお勉強できてしまったりするのが一般向け新書のいいところ)が、このあたりは植物学者が一般向けに書いた本として……ドリアンへの愛が溢れすぎている感もあるが、まあこういう感じだろうと予期していた通りの内容だった。

わたしが瞠目したのは4章「ドリアンの果物史」だ。本書でもっとも多くのページがこの章に充てられていることでも、この「果物史」がこの本のひとつの軸を成していることがわかるかと思う。
「果物史」は、日本国内でドリアンやマンゴスチンといった果物の流通が本格化したのは比較的最近のことであるが、実際のところ、そうした熱帯の産物についての情報は、大正から昭和初期のほうが豊富であったという指摘で始まる。当時は日本の目が「南方外地」の豊かな自然資源に向いており、進出を試み領土となそうとしていた時代、それは確かにそうだったはず。例えばわたしは、ここで引かれている金子光晴の『マレー蘭印紀行』に、とくに注釈なしで出てくる(つまり、当時の読者はそれについての知識を有していた)「サオ」について「サオ?なにそれ?」と思ってしまうが(「サオ」がジャワ名「サウォー」、一般には「サポジラ」と呼ばれる果物であることが明かされてもやっぱり「サポジラ?なにそれ?」なわけだが)、「サオ」は当時の小学校の国語の教科書にふつうに載っていたらしい。「我が国」の幸だったわけだ。
状況が一変したのは、当然ながら、敗戦によってであった。ここで興味ぶかいのが、エスニック料理のブームが、若い人を中心に、昭和末期に起こったことについての言及。西洋料理の復権・滲透が早かったのに対し、東南アジア料理のブームが遅れてやってきたこと、ブーム以前の忌避感について、それが、日本人が「求めて得られなかった地」の文化であることが関係しているのではないかという考察には、目からうろこが3,000枚ほど落ちて床に積もった(嘘)。
ほかにもグレープフルーツやバナナに関しての興味深いあれこれが、三島由紀夫や林芙美子、島田清次郎(「え、島清まで読んでるの塚谷先生?」と思ってしまったことを白状します)を引きながら語られているのでたまらない。この章が読めただけでも980円(税込1,078円)は安い! いや古書市で買ったんでした! いくらで買ったか忘れたけど!

5,6章はまたドリアンそのものに戻り、いろいろな食べ方、栄養成分・香気成分についての文章。「ガス漏れ疑惑事件」に腹を抱えて笑う。読み終わる頃にはドリアンに帰依せんばかりのわたくしであった。とはいえ未だドリアンを経験してはいない。いつか試食会を開催したあげく、近隣住民にガス会社を呼ばれてみたい。興味のある方、お待ちしております。

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