さて、リサイクル記事第三弾です……は、手抜き? ええそうですよ。いいじゃないですか。もうこれでオシマイなんですから。(風邪ネタがまだほかにあったかどうか本人にも定かではないので、続けようにも続けられないと いうのが実情ですが)
発熱思考
2012-02-26 14:49:59
テーマ:雑記
とはいえ、捨て去るのもしのびない思考の筋道というものもまたあるもので、今回のそれは「天かす」についてであった。
発端は、にゅうめんを食べていたとき。胃の調子がよろしくなかったので、ねぎとおろししょうがだけのものにしたのだが、わたしのにゅうめんの定番の具は、干ししいたけと薄揚げの煮たものである。あればこれに天かすを入れたりもする。いまは無理だなあ、天かす。と思ったら、俄然天かすが気になりはじめた。天かすとはなんぞや。
「天かす」という語は、「天」の部と「かす」の部に分けられる。
「天」とはなにか。それは「海老天」、「天つゆ」などという際の「天」、すなわち「天ぷら」の略語である。
「天ぷら」の「かす」、それが「天かす」なのである。
では「かす」とはなにか。それは「〔名〕 必要なものを取り去ったあとに残ったもの(『明鏡国語辞典』による)」である。天かす問題において、「必要なもの」とは皿に盛られるべき「天ぷら」本体を指す。
それでは「天かす」とはなにか。文字通りには「天ぷらのかす」であって、からりと揚がったえびやきす、野菜などの天ぷらが箸で取り去られた後、揚げ鍋に残ったものである。その内訳は、衣をまぶしたタネを油に投入する際に、タネから遊離し、独立して揚がった小片、および揚げている最中に天ぷら本体から遊離した衣の欠片である。
つまりそれは「衣」が揚げられたものであって、断じて「天ぷらのかす」ではない。あえていうなら、「天ぷらから隔離された衣」である。だが、「天ぷら」とは具材と衣の複合体であり、それゆえに天ぷらにおいて具材と衣は不可分であり、相互参照的なものである。具材あっての衣、衣あっての具材なのであ り、具材なしのそれを衣と呼ぶことにはいささかの躊躇があってしかるべきである。天ぷら本体から遊離した以上、小麦粉と卵と水の混合体が高温の油によって加熱されたものを、衣と呼ぶこと 自体おかしいといわざるをえないのだ。つまりそれは「かつて衣であったもの」というよりは、「衣となりえたもの」、「衣の可能態(デュナミス)」であり、し かし「衣になりえなかったもの」、すなわち「死した衣の可能態(デュナミス)」というべきである。それは断じて「かす」などではない。天ぷらの一部でな く、かすではないもの。それをわれわれは如う呼ぶべきなのであろう。
「揚げ玉」
という言葉があった……
うう……あっ、でもほら、揚げ玉は、なんというかそれだけを生産している感じがする。穴あきお玉かなにかで、「衣のデュナミス」を揚げ油の中にじゃわわわ~っと落として、大量生産。しかも市販のものには味さえつけられている。つまり、揚げ玉は、それ自体が目的である。それ自体が目的であるような存在に対して、「かす」と名づけられさえするものが等位の存在であることは不可能ではないか。つまり「揚げ玉」と「天かす」はその位相を異にするものなので ある。「天かす」はやはり天ぷらの副産物。天ぷらなくして天かすなし、そう、それだ。スーパーの惣菜売場の天ぷらコーナーの片隅で売っている、ポリ袋に入って赤いビニテで口を止められたもの。うどんに入れすぎると胸焼けする、あれ。あれこそが正しい天かすだろう。
「天かす」は「天ぷら」の副産物。ということは
「天かすの生産量は、天ぷらの生産量に規定される」
という関係が成り立つ。変数として、その日の気温・湿度、天ぷら職人の熟練度なども考慮すべきであろうが、「天かすの生産量は、天ぷらの生産量に規定される」は定式としてよいのではないか。そこから敷衍して、
「たぬきうどんの生産量は、天ぷらうどんの生産量に規定される」
という式も導かれる。
しかしここで新たな問題が発生し、事態は暗礁に乗り上げる。
「揚げ玉」を使用したうどんもまた「たぬきうどん」ではないか
という問題。となると、この定式が成り立たなくなる。
さらに「たぬきうどん」とはなんぞや、というアポリアである。
わたしは「たぬきうどん」というのは、天かすをトッピングしたうどんのことをいう、という認識であったが、京都では「たぬきうどん」といえば、冬にうれしいしょうがをきかせたあんかけうどんのことであった。さらにとある大阪のうどん屋にはじめて入ったとき、壁に掛けられたお品書きには「きつね」「たぬき」とあるのみであった。 パニックにおちいったわたしが店のおばちゃんに尋ねたら、「きつね」(「けつね」と発音される場合アリ)とは薄揚げの甘煮を乗せたうどん、「たぬき」とは 薄揚げの甘煮を乗せたそばのことだという。じゃあ、天かすを乗せたうどんは?おばちゃんいわく、「それはハイカラうどん」。 ……文化の壁に打ちのめされた瞬間であった。じゃ、じゃあそれをください、というと、
「ごめんなさいねえ、うち、ハイカラやってませんねん」
夢打ち砕かれたわたしが、そのとき何を食べたのかはもはや覚えてはいない。いま確実にいえることは、今も昔も、それほどまでにわたしは天かすを愛しているということだけである。
軌道修正して天かすにもどろうか、と思ったが、このあとの記憶がない。なんとなく、この議論がどこかに着地したような気もするが、定かではない。そ もそもここまで書いてきたようなことを、そのまま考えていたとも思えない。すべてが失われてしまったいま、うっすらと思い起こされるのは、その輝かしさがもしかしたら世界を変えていたかもしれなかった思考の残像だけである。
すみません、だれかわたしを正気に戻してください。
お師さん、風邪は治りましたか?
返信削除鼻水ひどいらしいけど大丈夫かしら。
実はわたくしも数週間ほど前に風邪をひいたのよ。
急患センターに行って頭が痛いっていったらなぜか脳腫瘍を疑われてCTかけられちゃった、てへっ。
結局ただの風邪・・・正確に言うと体調を崩しただけ?だったのだけど、1週間くらいもがき苦しんだわ。
点滴打ちながら働き続けて・・・みなさん体調を崩される頃なのね。
今日、書店に行ったらアンナ・カヴァンの『氷』を見つけてね、ああ、これがお師さんの読んでいたやつか・・・とつい買いたくなったのだけどやめて中村文則の『掏摸』と綿矢りさの『夢を与える』を買っちゃった。
『氷』ちょっと読んだら難しそうだったから・・・。
そうなのよ、意識が朦朧としているときはひらめきが起きるのよ!
あたしも閃光のようなものを感じることがある!
でもすぐ忘れちゃう・・・問題はどうやってそれを書き留めておくかよね。
・・・あたし正気じゃないのかしら・・・助けて!(>o<)
松井智希さん、コメントありがとうございます。
削除…なんか妙な感じがしますね(笑)。でもあちらでは新しいことはじめられたみたいだし、いままでみたいにお呼びしないほうがいいのかと思い。
熱は37度まで下がりましたよ。もうひといきです。鼻水はね、笑うくらいよ。箱ティッシュ二箱使い切ったわよ。
まあ、先生もお風邪でしたのね。点滴打ちながら働くって、ダメよ先生、休まなきゃ。
あら残念。でもわたしも今日から本読みはじめようと思ったのだけど、『氷』はやめにしたの。病み上がりにはヘビーよね。
先生にもそういうことあるのね~安心したわ(なにを?)。正気じゃない者どうし、助け合いましょうね(共倒れる危険大)。