22日(日)
帰宅すると、届いていた。ほんとに当たったのだ。当選のDMが来たとき、「つきましては、下記口座宛にお振込みをお願い」されたりするのでは、などと一瞬疑ってしまったのは、わたしがものすごくくじ運が悪い、いや、「悪い」というより「ない」からで。なんせローカルラジオ局の「175組350名様をご招待!」という、まったくはずれる気がしなかった(実際同僚にも「えっ、アレはずれたんですか!?」と驚かれた)映画試写会にも余裕ではずれたわたしなのだ。もしかしたら、もうわたし死ぬんちゃうか。なにが当たったかというと、コレなんですがね。
平凡社トートバッグ。 某呟き処で「好きな平凡社の本を3冊挙げる」企画に参加したのだ。しかし、正直なにを挙げるか悩んだ。好きでない本など、我が家においておくはずがないではないか(まだ読んでない本が山を成してるから、好きか嫌いか未決の本もあるだろとかゆっちゃダメ)。我が家に平凡社ライブラリーやコロナブックスはけっこうあるし。実際、自分で挙げた3冊を覚えていなかった。というわけで、オノレのつぶやきをさかのぼって調べる羽目に。 そして投票した本たちと記念撮影、
……し、しようと思ったら、持ち歩き用にと買った平凡社ライブラリー版の『鼻行類』がどどどどうしても見つからず、ししし思索社版で……
24日(火)
きょうはボイルほたるいかを買ってきた。口当たりをよくするために、小さないかたちの目玉を取っていると、だんだんいたたまれない気持ちになってきて、しまいに謝りながら目玉を取る。よく見るとけっこうかわいい生き物なのだ。ごめんよごめんよ。食うけどね。からし酢味噌で。おいしいですね、ほたるいか。かわいいのに。
たいへんおいしゅうございました。ごめんなさい。
25日(水)
「2台のピアノのための協奏曲の夕べ」という催しに、友人のピアニストが出演するというので、大阪はザ・シンフォニーホールへ。18時30分開場とのことで、そのちょっと前に行ってみたら、ものすごい人が並んでいる。友人から、ばたばたしていて送れなかったから、チケットは受付預かりにしてあるという連絡を受けていたので、最後尾に並ぶ。やっとこさ窓口が見えてきたが、窓口は三つ、いわゆるフォーク並びじゃないし、客をさばく係員もいないので、すいている列に並んだからといって早く受け付けてもらえるとは限らない、ギャンブルのような窓口だった。順番が来て用件を告げると、招待客の受付は別だといわれ、教えられた招待客受付でチケットを受け取り、係の人から「あちらで座席券と引き換えてください」と指されたのは、先ほどの窓口。来たときと同じくらいの人が並んでいる列の最後尾に、もういちど並ぶ。まったくなにやってんだか。笑劇か。だとしても、その顛末を誰も見てないので、空しいだけ損じゃないか。
演目はモーツァルト、ブルッフ、サン=サーンス、プーランクという、わたし好みの作曲家のものばかりでうれしい。今回聴いたなかでは、ブルッフとプーランクの曲がおもしろかった。モーツァルトは、ああ、モーツァルトだな、って曲だし(まあどれ聴いてもそうなんであって、嫌いだといってるわけじゃないです。安定のモーツァルト節ってことで)、サン=サーンスは「動物の謝肉祭」じゃないのがいいなと思ってたし(贅沢をいうようだけども、この曲はあんまり好きじゃなくて……)。
終演後、某所で飲む。スタウトがうまい。アテはイイダコのアヒージョ、新玉ねぎのグリル、冷やしトマト。うまかったけど、わたしには鹹すぎる味つけで、ビールがどんどん欲しくなる……のは戦略だな、たぶん。普通舌の人にもちょっと濃いめの味だろう。しかしこのままビールをたのみ続けると終電に間に合わんので、飲むのは二杯にとどめて帰る。
28日(土)
A. E.
コッパード『郵便局と蛇』(ちくま文庫)読了。もっとはやく読めばよかった。「ここがこういうふうにいい!」ということは難しいというか、「コッパードの小説とはこういうものだ!」と決めつけることはできないけど、凄くいい。何にも似ていない、収録された作品同士も似ていない、様々な味わいの短編たち。読んでいる最中は、妙に居心地が悪い、といっても嫌だとか面白
くないというのとは違う、なんともおさまりが悪い気分を味わった。読後感もモヤっとしている。それでも、決して嫌ではない。なんだろうなあ、こういうの。
淡々としたなかに、わずかな波の立つような繊細さが美しい「辛子の野原」、少々感傷的な「美しく若い柳」、鼠の身に起こったことに、瞬時に自分を捕らえて
いるものの正体を知るさまが鮮やかで痛ましい「アラベスク―鼠」、ヘンリー・ジェイムズ的といえなくもないけど、やはり独特な幽霊譚「ポリー・モーガン」など、傑作揃い。馬鹿話的「王女と太鼓」もいい。これは光文社古典新訳文庫の『天来の美酒 / 消えちゃった』も読まんとな。
郵便局と蛇: A・E・コッパード短篇集 (ちくま文庫)
A.E. コッパード Alfred Edgar Coppard
天来の美酒/消えちゃった (光文社古典新訳文庫)
アルフレッド・エドガー コッパード Alfred Edgar Coppard
30日(月)
18きっぷで行ってきました。
バンカラがいました(縮尺がわかりにくいけど、意外に小っちゃくてかわいい)。うーん、いわゆる名所に行ってないので、宮島のときとちがって、すぐに「アソコだ!」とわかる写真がない……どこだかおわかりになった方は、褒めます。褒めるだけで賞品はありません。申し訳ございません。土産を買ってません。それどころか、わたくし飯もロクに食えませんでしたので、あしからずご了承くださいませ。
まだ街中の桜はほとんど咲いてない場所。この木は種類が違うのか、一本だけほぼ満開だった。
ソメイヨシノより色も濃いような。しかしコンデジでは撮りにくいな。一眼ほしい。
31日(火)
本日のお買いもの: 『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー / 芹澤恵 訳 新潮文庫)
むか~し一度読んだきり。この新訳、名訳らしいときいたので、読むのがたのしみ。しかし表紙のこの創元推理文庫感……
2015-03-31
2015-03-23
宮島にて――春の弾丸旅行記(後)
(承前)
桟橋をを一歩出たら、
鹿がゆっくり寄ってくる。みんな鹿と並んで記念撮影してる。鹿の順番待ちまではじまってる。大スターだな、鹿。でも奈良にはよく行くので知っているが、その人気はたぶん今だけだ。
海のほうに立像が。
あ、やっぱりね。清盛。若女子がまじまじと見て、「へー、こんな顔してたんだー」とかいってるので、「いや、あの時代の人の顔はどんなんだかわか」まで口に出したところで、「シッ!」と、連れに制止される。「聞こえるから!」だと。
でも、「伝清盛」とかじゃない清盛の肖像でいちばん信頼できるとされてるのって、これでしょ?
ぜひこの顔で造像していただきたいものです。
はい、鹿。なんとなくだけど、奈良の鹿よりおっとりしている感じがするなあ、と思っていると、向こうの方で悲鳴が。観光客が案内図を鹿に奪われ、それを鹿同士で奪い合いしている。意外な一面を見たような気がする。ふと公園の方を見ると、こっちでも包装紙かなにかをめぐって激しい争奪戦が繰り広げられている。
(そんな紙、体に悪いんじゃないか?)
そうかと思うと、
食堂の硝子戸を覗いている。これは自動扉にするわけにはいかんだろうなあ。と道の反対側からこの光景を見ていたわたしは後ろから無言で(当たり前か)やってきた奴にポケットを狙われた。 こいつら、なにかありそうな場所をよく知ってやがる……おっとりしてるのは寝てるやつだけか。
なるほど。起きてるやつは、自転車の荷物にいたずらするか紙を奪い合うか食堂に入ろうとするか人のポケットを狙うのだな。なかなかどうして、あなどれん。
忍び寄る鹿を振り払い振り払い、しばらく散歩していると、 こんな看板が。
「貝は1人1升(3kg)以内」って、3kgったらかなりの量なのではないのか。そんなにご家庭で消費できるのか。プロもほっていいというのか。それより、貝ほりに関する御触れのなかに唐突にあらわれる「海はきれいにしましょう」は、位置がおかしいのではないか。
とか考えていると腹が減った。食事等(プランに含まれている。牡蠣づくしで鯛釜飯もついてて、さらに温泉にも入りました)をすませて、町なかを散策。
これ、遠目に見たときはのぼりの絵が見えず、そうか、あなごって長い魚だけど、結ぶのはすごい技だなあ、と本気で考えてて、連れにそういったら鼻で笑われた。
それにしても、歩いているとほんとによく関西アクセントが耳に入る。このあたりでは、「中京区の……」とかなんとかいってる人々がすぐ後ろを歩いていたりして。ご近所さんばっかりかいな。
さて、宮島に来たとあれば、いかなヒネクレ者でもここを訪れぬわけにはいくまい。ということでやってまいりました、厳島神社。
回廊の工事してました。
これは……いま話題の。まあ、うちはテレビないんで見たことないんですけどね。
大鳥居。
火焼前。「ひたさき」と読むのだそうな。ここは自撮りスポット(でいいのか?)で、たくさんの人が自撮り棒を携え、行儀よく並んで順番を待っている。
拝殿では結婚式の最中。しかし真後ろでは参拝客がひっきりなしにお賽銭をあげて拍手を打っているので、落ち着かないだろうな。連れが「新郎、ネイティブやったで」とおっしゃる。この人は「ネイティブ」をなんだと思っているのだろうか。つい笑ったらどつかれた。
能舞台。これはぜひ満潮のときに見てみたい。
反橋。この写真ではそれほどでもないようにしか見えないけど、ほんまに人が渡ったんか?と思うほど傾斜が急。
出口を出てすぐのあたりにこんなものが。
背後の工事現場がそのまま写り込んでシュールなことになってしまった。えーと。なんかこんなキャラクターいなかったっけ?
これだな(観てないけど)。
観光案内所でもらってきた(鹿が奪って食っていた)案内図に「眺望良」とあるので、多宝塔への階段を登ってみる。
途中にこんなことになっている木が。
抜けられます(小動物に限る)。植物は不思議な生き物だな。 死んだ部分を抱え込んで、全体としては生きている。
馬酔木がたくさん咲いていた。
なるほど。
多宝塔。海の見える背面に回ってみたら、木が多くてそんなに眺望はよくない。しかし、いまは蕾のこの桜が咲いたら、すごかろうな。
紅葉谷のほうへ行ってみようか。
と思ったが、行く手に闇しか見えなかったので引き返して、アセビ歩道を下る。小さい公園があって、散歩途中であろう老夫婦が休憩されていた。 にこやかに「こんにちは」と声をかけてくださったので挨拶を返す。ここからのほうが眺めがよい。
石段を降りる途中にこんな看板が。
やはりというかなんというか。「平家」、ですか。しかし「和洋食れすとらん トップビュー宮(このあと判読不能)」のほうは、もうちょっと幅をなんとかしたら、なんとかなったんではないでしょうか。あ、もしかして、「和洋食れすとらん トップビュー宮...」という名称なのでしょうか。
こちらは準備中ですが、「プチ平家」って、分家ですか。いや、その前に「プチ」と「平家」が相当ミスマッチに見えてしまうのは、ええ、きっとわたしの心に曇りがあるからでございましょう。
石段を降りて少し歩くと水族館。イルカショーだかアシカショーだかをやっているらしく、楽しげなMCが聞こえてくるが、そこは素通りして、少し行くと、
牛石というものが。「形が牛に似る」……?
よくわからなかったので一周してみたが、やっぱりどのへんが「牛に似る」のかよくわからなかった。
向かいに神社が見える。梅が綺麗に咲いていたので寄ってみたが、諸事情により写真はない……平たくいうと失敗した。
奥へ行ってみたら、そこは鹿のハーレムであった。
水音がするので、風情を求めてそちらへ行くと、
風情もへったくれもない橋がかかっていた。一応中ほどまで進み、下流を眺める。
遠くの方にトロ箱が引っかかっている風情のない眺め。上流は、
さらに風情がないのであった。
そろそろ引き返そう。土産も買わないといけないし。
自撮り棒販売所(ではないだろうが)のもみじが片づけられているのが、なんかかわいい。
夕方近くなると桟橋の方へ向かう人が多くなるのだけど、そちらへ進む人々は、大抵もう鹿にはかまわなくなっている。鹿のほうでも、そういう鹿慣れした人間たちよりも、反対方向から来る人に寄っていくように見えるのだけど、どうなんだろう。
土産物屋の立ち並ぶ通りで職場への土産を買ったり、ヘンな、もとい、オリジナル色あふれる土産物はないかと物色したりしていると、こんなものが。
「世界一の大杓子」 だとか。これでなにを杓おうというのか。杓えない杓子の存在意義は那辺にありや。
その意義は宗教的方面に見出されるのか(違うような気が)。なぜ人はこうしたものを見ると、賽銭を投げてしまうのだろう。明らかに賽銭箱じゃないもの(菓子箱か?)が適当に置かれているところを見ると、とにかく闇雲に賽銭を投げてしまう人が続出したので、急遽箱を置いて対処したものと考えられる。
そしてコレだ。出たな清盛。
時系列がえらいことになっている気がするのだが。清盛が厳島神社を現在みられる形にしたのは出家後のことじゃないのか(知らんけど)。そして宮島名物の杓子が生まれたのは18世紀末らしいし。
さて、土産も買ったし、広島へ戻ろう。フェリーに乗り込んで、もう写真はいいかと船室でいすに腰掛ける。隣によう喋る女子二人が座っていて、聞こえてくる会話に「天王寺」とか「梅田」とかが混じっている。しかし多いな、関西人。まあ関西人が大きい声でよう喋っとるだけかもしれんが。そのうちフェリーはびっくりするほど静かに動き出して、びっくりするほど静かに航行、そして接岸する前に減速した。そのとき、この隣の女子二人が「あ、やっと動き出した」といったのでびっくりした。いや、着いたんですわ。しかしそれくらい揺れがほとんど感じられなかったのも事実で、皆降りようとしているのに眠り続けている人もいたくらい。あの人だれか起こしてあげたんだろうか。
宮島口からわりと混雑している電車に乗車。前に座った学生と思しき男子が、教科書か参考書のような本を熱心に読んでいたのだけど、片手に発泡酒の缶を持って飲みながら読んでいる。他人事ながら、それで頭に入るのかがちょっと心配になった。しかしまあ、飲みたくはなりましたね。というわけで、広島駅の売店でビールとアテを購入し、新幹線に乗り込む。せっかくなので、「宮島ビール」と「干しがき」。牡蠣です。パッケージにも「海の」干しがきと書かれている。干しがきは自宅用にもひとつ買った。
一日歩き回ったあとのビールはさすがに体に沁みる。連れは飲み終わらぬ先に爆睡。それも新大阪まで。あなた来るときも寝てたのでは?
そうだ、土産。職場用には、どの観光地にもあるタイプの菓子(「〇〇へ行ってきました」みたいなやつ)でお茶を濁し、世話になった人にはもみじ饅頭(鉄板土産)。自分用にはこういうものを。
……「The 宮島土産」ではないけれども。しかも京都では手に入らないものを、と思って選んだものなのに、レモスコは近所のスーパーに売っててちょっとがっかりした。あと、これ。
自分でもなんのつもりで買ったのかよくわからない。まあね、嬉々としてこれを買うわたしに連れが呆れていたことだけは覚えている。しかし旅とはこうしたものでしょ。
さてと。豪勢な旅ではあったけど、日帰りではやはり見たかったところを全部は回りきれない。というよりわたしが妙なものに時間を使いすぎた面がないとは言い切れない、ていうか全面的にそれがいけなかったですね。申し訳ございません。次回は泊まりで行ってみたいと思います。ぜひに。
桟橋をを一歩出たら、
鹿がゆっくり寄ってくる。みんな鹿と並んで記念撮影してる。鹿の順番待ちまではじまってる。大スターだな、鹿。でも奈良にはよく行くので知っているが、その人気はたぶん今だけだ。
海のほうに立像が。
あ、やっぱりね。清盛。若女子がまじまじと見て、「へー、こんな顔してたんだー」とかいってるので、「いや、あの時代の人の顔はどんなんだかわか」まで口に出したところで、「シッ!」と、連れに制止される。「聞こえるから!」だと。
でも、「伝清盛」とかじゃない清盛の肖像でいちばん信頼できるとされてるのって、これでしょ?
ぜひこの顔で造像していただきたいものです。
はい、鹿。なんとなくだけど、奈良の鹿よりおっとりしている感じがするなあ、と思っていると、向こうの方で悲鳴が。観光客が案内図を鹿に奪われ、それを鹿同士で奪い合いしている。意外な一面を見たような気がする。ふと公園の方を見ると、こっちでも包装紙かなにかをめぐって激しい争奪戦が繰り広げられている。
(そんな紙、体に悪いんじゃないか?)
そうかと思うと、
食堂の硝子戸を覗いている。これは自動扉にするわけにはいかんだろうなあ。と道の反対側からこの光景を見ていたわたしは後ろから無言で(当たり前か)やってきた奴にポケットを狙われた。 こいつら、なにかありそうな場所をよく知ってやがる……おっとりしてるのは寝てるやつだけか。
なるほど。起きてるやつは、自転車の荷物にいたずらするか紙を奪い合うか食堂に入ろうとするか人のポケットを狙うのだな。なかなかどうして、あなどれん。
忍び寄る鹿を振り払い振り払い、しばらく散歩していると、 こんな看板が。
「貝は1人1升(3kg)以内」って、3kgったらかなりの量なのではないのか。そんなにご家庭で消費できるのか。プロもほっていいというのか。それより、貝ほりに関する御触れのなかに唐突にあらわれる「海はきれいにしましょう」は、位置がおかしいのではないか。
とか考えていると腹が減った。食事等(プランに含まれている。牡蠣づくしで鯛釜飯もついてて、さらに温泉にも入りました)をすませて、町なかを散策。
なかなか風情がありますね。ん? なんだあれ?
それにしても、歩いているとほんとによく関西アクセントが耳に入る。このあたりでは、「中京区の……」とかなんとかいってる人々がすぐ後ろを歩いていたりして。ご近所さんばっかりかいな。
さて、宮島に来たとあれば、いかなヒネクレ者でもここを訪れぬわけにはいくまい。ということでやってまいりました、厳島神社。
回廊の工事してました。
これは……いま話題の。まあ、うちはテレビないんで見たことないんですけどね。
大鳥居。
火焼前。「ひたさき」と読むのだそうな。ここは自撮りスポット(でいいのか?)で、たくさんの人が自撮り棒を携え、行儀よく並んで順番を待っている。
拝殿では結婚式の最中。しかし真後ろでは参拝客がひっきりなしにお賽銭をあげて拍手を打っているので、落ち着かないだろうな。連れが「新郎、ネイティブやったで」とおっしゃる。この人は「ネイティブ」をなんだと思っているのだろうか。つい笑ったらどつかれた。
能舞台。これはぜひ満潮のときに見てみたい。
反橋。この写真ではそれほどでもないようにしか見えないけど、ほんまに人が渡ったんか?と思うほど傾斜が急。
出口を出てすぐのあたりにこんなものが。
これだな(観てないけど)。
観光案内所でもらってきた(鹿が奪って食っていた)案内図に「眺望良」とあるので、多宝塔への階段を登ってみる。
途中にこんなことになっている木が。
抜けられます(小動物に限る)。植物は不思議な生き物だな。 死んだ部分を抱え込んで、全体としては生きている。
馬酔木がたくさん咲いていた。
なるほど。
多宝塔。海の見える背面に回ってみたら、木が多くてそんなに眺望はよくない。しかし、いまは蕾のこの桜が咲いたら、すごかろうな。
紅葉谷のほうへ行ってみようか。
と思ったが、行く手に闇しか見えなかったので引き返して、アセビ歩道を下る。小さい公園があって、散歩途中であろう老夫婦が休憩されていた。 にこやかに「こんにちは」と声をかけてくださったので挨拶を返す。ここからのほうが眺めがよい。
石段を降りる途中にこんな看板が。
やはりというかなんというか。「平家」、ですか。しかし「和洋食れすとらん トップビュー宮(このあと判読不能)」のほうは、もうちょっと幅をなんとかしたら、なんとかなったんではないでしょうか。あ、もしかして、「和洋食れすとらん トップビュー宮...」という名称なのでしょうか。
こちらは準備中ですが、「プチ平家」って、分家ですか。いや、その前に「プチ」と「平家」が相当ミスマッチに見えてしまうのは、ええ、きっとわたしの心に曇りがあるからでございましょう。
石段を降りて少し歩くと水族館。イルカショーだかアシカショーだかをやっているらしく、楽しげなMCが聞こえてくるが、そこは素通りして、少し行くと、
牛石というものが。「形が牛に似る」……?
よくわからなかったので一周してみたが、やっぱりどのへんが「牛に似る」のかよくわからなかった。
向かいに神社が見える。梅が綺麗に咲いていたので寄ってみたが、諸事情により写真はない……平たくいうと失敗した。
奥へ行ってみたら、そこは鹿のハーレムであった。
水音がするので、風情を求めてそちらへ行くと、
遠くの方にトロ箱が引っかかっている風情のない眺め。上流は、
さらに風情がないのであった。
そろそろ引き返そう。土産も買わないといけないし。
自撮り棒販売所(ではないだろうが)のもみじが片づけられているのが、なんかかわいい。
夕方近くなると桟橋の方へ向かう人が多くなるのだけど、そちらへ進む人々は、大抵もう鹿にはかまわなくなっている。鹿のほうでも、そういう鹿慣れした人間たちよりも、反対方向から来る人に寄っていくように見えるのだけど、どうなんだろう。
土産物屋の立ち並ぶ通りで職場への土産を買ったり、ヘンな、もとい、オリジナル色あふれる土産物はないかと物色したりしていると、こんなものが。
「世界一の大杓子」 だとか。これでなにを杓おうというのか。杓えない杓子の存在意義は那辺にありや。
その意義は宗教的方面に見出されるのか(違うような気が)。なぜ人はこうしたものを見ると、賽銭を投げてしまうのだろう。明らかに賽銭箱じゃないもの(菓子箱か?)が適当に置かれているところを見ると、とにかく闇雲に賽銭を投げてしまう人が続出したので、急遽箱を置いて対処したものと考えられる。
そしてコレだ。出たな清盛。
時系列がえらいことになっている気がするのだが。清盛が厳島神社を現在みられる形にしたのは出家後のことじゃないのか(知らんけど)。そして宮島名物の杓子が生まれたのは18世紀末らしいし。
さて、土産も買ったし、広島へ戻ろう。フェリーに乗り込んで、もう写真はいいかと船室でいすに腰掛ける。隣によう喋る女子二人が座っていて、聞こえてくる会話に「天王寺」とか「梅田」とかが混じっている。しかし多いな、関西人。まあ関西人が大きい声でよう喋っとるだけかもしれんが。そのうちフェリーはびっくりするほど静かに動き出して、びっくりするほど静かに航行、そして接岸する前に減速した。そのとき、この隣の女子二人が「あ、やっと動き出した」といったのでびっくりした。いや、着いたんですわ。しかしそれくらい揺れがほとんど感じられなかったのも事実で、皆降りようとしているのに眠り続けている人もいたくらい。あの人だれか起こしてあげたんだろうか。
宮島口からわりと混雑している電車に乗車。前に座った学生と思しき男子が、教科書か参考書のような本を熱心に読んでいたのだけど、片手に発泡酒の缶を持って飲みながら読んでいる。他人事ながら、それで頭に入るのかがちょっと心配になった。しかしまあ、飲みたくはなりましたね。というわけで、広島駅の売店でビールとアテを購入し、新幹線に乗り込む。せっかくなので、「宮島ビール」と「干しがき」。牡蠣です。パッケージにも「海の」干しがきと書かれている。干しがきは自宅用にもひとつ買った。
一日歩き回ったあとのビールはさすがに体に沁みる。連れは飲み終わらぬ先に爆睡。それも新大阪まで。あなた来るときも寝てたのでは?
そうだ、土産。職場用には、どの観光地にもあるタイプの菓子(「〇〇へ行ってきました」みたいなやつ)でお茶を濁し、世話になった人にはもみじ饅頭(鉄板土産)。自分用にはこういうものを。
……「The 宮島土産」ではないけれども。しかも京都では手に入らないものを、と思って選んだものなのに、レモスコは近所のスーパーに売っててちょっとがっかりした。あと、これ。
自分でもなんのつもりで買ったのかよくわからない。まあね、嬉々としてこれを買うわたしに連れが呆れていたことだけは覚えている。しかし旅とはこうしたものでしょ。
さてと。豪勢な旅ではあったけど、日帰りではやはり見たかったところを全部は回りきれない。というよりわたしが妙なものに時間を使いすぎた面がないとは言い切れない、ていうか全面的にそれがいけなかったですね。申し訳ございません。次回は泊まりで行ってみたいと思います。ぜひに。
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