2016-06-20

日々雑記 2016 Jun. #2

12日(日)

朝。


丸パンとコーヒー。


昼。


エリンギ飯、酢の物、塩漬けきのこのかき玉汁。酢の物に使ったミョウガの残りは塩ひとつまみ加えてオリーブオイル漬けに。



夜。


冷や奴のオイル漬けミョウガ乗せ、塩漬けきのこのおろし和え、ヱビス。ミョウガはオリーブオイルよりも太白胡麻油に漬けたほうがよかったような気がする。いまウチにはないけれども。これ、花かつおと合わせて醤油を混ぜて、白いごはんに乗っけたらうまかろうな。保存するつもりで油を多めにしているけど、香りがやわらかくなるし、けっこう使い勝手がいいので、生や酢漬けより早くなくなりそう。油で和える程度でいいような気がする。


13日(月)

フェルナンド・ペソアの誕生日。朝から雨。午後には上がり、夕方には日が差してきたが、湿っぽい。夜、室内にて今年初の蚊を観測(しとめました)。

ある本を読んでいて、内容にそれほど深く関わることでは(いまのところ)ないのだけど、ふと「自分が何者か、なんのために存在しているのか、仮にそれに明確な答えが与えられうるとして、それを了解したうえで生きることは恐ろしいことではないのか」なんてことを考えた。そういえば、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』には、そうした状況を生きる登場人物たちが描かれている、と思い当たったところで、ある方から、フィリップ・K. ディックの小説が、その逆の状況の恐ろしさを描いていると思い出させていただいた。自分たちが正気を失わずに生きていられるのは、そのどちらでもない状況を生きるしかない、というか自分たちの生について、なにひとつ確かなことを知りえないからじゃないのか、などと思う。別の方とは、これが記憶とアイデンティティの話に発展して、ジュリアン・バーンズ『終わりの感覚』を薦めていただいた。ありがたい。

4151200517わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)
カズオ・イシグロ 土屋政雄
早川書房 2008-08-22by G-Tools

4150118639トータル・リコール (ディック短篇傑作選)
フィリップ・K・ディック 大森 望
早川書房 2012-07-05by G-Tools

4105900994終わりの感覚 (新潮クレスト・ブックス)
ジュリアン バーンズ Julian Barnes
新潮社 2012-12by G-Tools


14日(火)

夜、とある用でとあるDVDを観ていたのだが、ナッシュヴィル野郎の南部アクセントに苦戦。わからなくて何度もリプレイしているところに、開いていた窓から突入してきたコガネムシが部屋中をブンブン飛び回っていてカオス状態。そして蚊に刺される(今季初)。


15日(水)

昨夜からいて部屋中を飛び回り、時折ボトッと落ちてくるコガネムシよ、頼むから出ていってくれ。いつかキミが冷や奴の上に落ちて来はしないかとヒヤヒヤしているのだよ。そんなことになったらお互いのためによろしくないではないか。

一昨日薦めていただいた本をネット古書店などで探索。送料込みの最安値は1,400円也。


16日(木)

出勤時、職場の最寄り駅に貼られた、たぶん学資保険かなにかのポスターの「学びへの道」という文字が、本気で「滅びへの道」に見えたので、もうわたしは駄目だと思う。

仕事帰りに寄ったブッ〇オフで、探していた本を発見。760円也。ポチらなくてよかった。本日の収穫。


ホクホクついでに、強力粉2㎏も購入。開業する気か。(できません) ホクホク帰宅して、晩飯は釜揚げうどんでも食べようかとめんつゆ(3倍濃縮タイプ)を出してみたら、カビが浮いていて衝撃を受けた。カビるのか。カビるわな。今度からちゃんと冷蔵庫に入れよう。


17日(金)

帰りの電車の中で、ぼんやりと「祈る」というのはどういうことだろう、と考えた。「願う」はわかるし、「願う」ことはできるけど、わたしは、自分には「祈る」ことができないと思う。それがなぜかということは、まだ明確に言語化できていないのだけど。わたしも「祈る」を「願う」の意で使用することはある。「こうなってほしいと思う」が「願う」、「祈る」は「願う」を含む、あるいは一部重なるものだろうと思う。では重ならない部分はなんだろう、と考えると、これがはっきりさせられない。人智を超えたものへの語りかけ、といってしまえばそれまでかもしれないけれども、これもどういうものか、しっくりこない。日常的に見たり聞いたり読んだりするものの中に、「これは祈りだ」と直観するものはある。ただ、その「祈り」がどういうものであるのかがわからない。難しい。某呟き処でこの話題の話し相手になってくださる方々がいて、たいへん勉強になった。この手のことは、わたしの表現力と理解力がアレなおかげで、伝えるのも受け取るのも難しく、結局わからないままで終わってしまったけれども、ありがたい。これに懲りずに相手をしていただければ、とてもうれしい。

深夜、パンを焼く。今回はパン・ド・カンパーニュみたいなヤツに挑戦。


二次発酵の膨らみ具合が足りない気はするが、もう眠いので待っていられなくて、エイ、焼いてしまえとクープを入れる。包丁を入れる力加減がいまひとつつかめず、おっかなびっくり、何度かに分けてギコギコ切ったおかげで、クープがためらい傷のようになる。そしてウチには霧吹きがないことに気づく。植物用のはあるが、さすがに、それは。まあいいや、ドライで焼け。(後に、濡らしたキッチンペーパーをふんわりかけるといいとアドヴァイスをいただいたので、次回やってみようと思う)

焼けました。


……思っていたのと、こう、なんか、おおいに違う気がするが、まあよしとしよう。


18日(土)

現在、ウチではハードカバーの『ある島の可能性』、通勤時は文庫本の『地図と領土』と、ミシェル・ウエルベックをダブルで読んでいるのだが、『地図と領土』!ウエルベック自身が小説中に登場するのだけど、帯にあんなこと(「ウエルベック、〇〇(自主規制)!?」)が書いてあるために、ジェド(登場人物)が訪問に先立って連絡しようとするたびに、訪ねたウエルベックが〇〇〇〇〇(自主規制)かどうか気になってしかたなく(また彼が何度コールしても電話に出なかったりするのだ)、これはもう、かなりけしからんと思う。けしからんぞ、ちくま文庫!

4309464173ある島の可能性 (河出文庫)
ミシェル ウエルベック Michel Houellebecq
河出書房新社 2016-01-07by G-Tools

4480433082地図と領土 (ちくま文庫)
ミシェル ウエルベック Michel Houellebecq
筑摩書房 2015-10-07by G-Tools

本日仕事帰りに、近所のスーパーでブラウンマッシュルームを特売していたので購入。むむ、オートミールは常備、牛乳・たまご・トマトあり、パンは昨日焼いた、豆は……ちょっと違うけどひよこ豆の水煮がある。これはフル・ブレックファストをやるしかないのか。果物ないけど。ところが、そのスーパーでなぜかひと瓶だけ売っていたタイ製のゴールデンマウンテン・シーズニング・ソース(世界標準的にはシーズニング・ソースは、マギー社製でなくても「マギー・ソース」というとの情報を得た。ウォークマンとかホッチキスとかと同様の呼称問題?)も買ってしまい、イングリッシュ・ブレックファストの行く末に暗雲がたちこめる。だって、目玉焼きをはじめとして、たまご料理にはマギー・ソース(ちゃっかり呼称変更)でしょう。しかしそれではイングリッシュではない。さてどうなるイングリッシュ・ブレックファスト。


19日(日)

朝。


肉っ気なし、豆なしなので、フルでなくパチ・ブレックファストであり、さらに誘惑にどうしても耐えきれず、目玉焼きにマギー・ソースをかけてしまったので、なんだかよくわからない朝食になった。マギー・ソースをかけた目玉焼きは、たいそうおいしかった。

昼。シンクの排水管のつまりと格闘、みごと勝利をおさめ、ゴボボッという音とともに排水管が開通した時には、家を出なければならない時間となっていたため、昼飯は抜き。


これを観てきました。ボタニカル・アートはいい。当然のごとく、ウィリアム・モリスの展示もあったのだけど、『地図と領土』、ちょうど会場に向かう電車の中で読んでいた部分でモリスに言及していたので、ちょっと不思議な感じがした。植物画は不思議なジャンルだ。精密さを目指しながらも、写真には絶対できないことができる。ひとつの画面にあらゆる角度からなる視点を導入し、一体の植物にあらゆる時間の形態をおさめることをさりげなくやってのけるのだからすごいよなー、てなことを考えながら観ていると、かなりといっていいレベルの騒がしいモノが近づいてくる。人類最強の種族、おばちゃんである。しかも5人いる。群れなすおばちゃんの、他人の集中力を途切れさせる妖力は天下に比ぶべきものなし。あな恐ろし。絵を見ながら描ける描けないで話しているということは、ボタニカル・アートやってる人々だな……出口近くでよかった。さっさと観て早々に退散(わたしが)して、階下の「江戸の植物画」を観る。なかなか面白い。マツバランのカタログが一色刷りなのは「マツバランが花を咲かせない緑一色の植物ならでは」的な解説にほっこりする。観ているとあの人々がガヤガヤとやってくる。落ち着かん。グッズ売り場で「ここは喋ってもええやんね」ってあんたら自覚あったんかい。ていうか場内でもさんざ喋ってたやないか。

同じチケットで、フィルムシアターの映画を観る。きょうは加藤泰監督『瞼の母』。安定の職人技的演出のなかにも、「これどうやって撮ってるんだろう」と不思議に感じられる場面などもあり、気が抜けない。しかし、長谷川伸はいいね。

映画のあと、まだ明るいので、「中庭にミニ・イングリッシュ・ガーデン登場!」というのを見に行ってみる。地味な色合いの漆喰製まゆまろの隣に……うん、ミニである。ていうかガーデンどころか花壇ひとつである。いいの、それで?

腹ペコで帰宅、大急ぎで料理。


レーズン入り夏野菜の蒸し焼きとセロリ飯、きゅうりのオリーブオイル和えで夕食。


20日(月)

朝から晴れ。ベランダの衆に液肥を与える。今年はニガウリの芽出しに失敗したので、この10年で初めてニガウリなし。かわりにミニトマトが元気に育っている。



リトープスはもう一頭も脱皮を始めた。




4月に棒にしたアボカドは幹を伸ばし、葉を開いている。


今月で2さいになりました。

4 件のコメント:

  1. 我が家の辞書によりますと・・・

    祈る
    ①神仏にねがう。祈願する。
    ②心から希望する。

    願う
    ①望みがかなうようにのぞみ、もとめる。
    ②神仏に願をかける。いのる。
    ③役所などに希望を申し出る。

    「祈る」の説明に「ねがう」が登場しますし、「願う」の説明に「いのる」が登場しますので、両者は定義上はほぼ同じ意味なのだと思います。
    しかし「祈る」は①の方にまずに神仏との関係が出てくるのに対し、「願う」の方は神仏との関係は②番目で、かつ役所のような世俗機関が登場することから、「祈る」の方が宗教的・超越的で、「願う」の方が世俗的・内在的な意味合いが強いのではないかと推測されます。

    宗教心は、えもいわれぬものに対するおそれの気持ちに由来しますので、そういう心象を持ちにくくなった多くの現代人は、「願う」ことはあっても「祈る」ことは少なくなっているのかもしれません。
    しかし、我々も何かに対しおそれを感じるほどに追い込まれたとき、はじめて「祈り」の気持ちが発動するのではないか、などと考えました。

    何気なく使っている言葉でも、いざ問われると難しく、何だかあれこれと考えてしまいました(笑)。

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    1. れぽれろさん、コメントありがとうございます。

      なるほどねえ。「超越的/内在的」ということばで説明していただくと、納得できます。そういえば、わたしが「願う」の意で「祈る」を使用するのは、他人のことに関して「心から希望する」場合ですね。だれかがなにかをするときに「成功を祈る」ような場合です。わたしにとって「願う」は、ごく私的なもののようです。なんてことが、いまわかりました。ありがたいですねえ。書いてみるもんだ(笑)。

      「祈る」はやはり宗教的な意味合いが強いというところに、わたしは「祈る」ことができないのだろうと感じることの根があるのでしょうね。

      勉強になりました。ありがとうございます。またよろしくお願いいたします。

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  2. あんな子2016/06/23 23:41

    初めてコメントします。

    願うときは、欲望のために。
    祈るときは、祈ることで自分の心が安らかになるために。
    祈るためにはやはり「なにか、絶対的なもの」があってほしい。あると便利。
    祈りは自分で自分をゆるそうとする、罪悪感みたいなものが根底にあるような。わたしのばあい。

    ふのすけさんは自分をゆるそうと思ってなさそうなので、祈らないかも、とかんじました。
    今年はにがうりないのね。残念。

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    1. あんな子さん、コメントありがとうございます。ようこそお越しくださいました。

      なるほど。「願う」は「欲望のために」。「こうなってほしいと思う」ですね。「祈る」にはやはり超越的なものが必要、と。やっぱりその辺がふたつのことばの違いなのでしょうね。自分で自分をゆるす場合にも、超越的なものの存在が必要になるのはわかります。

      >自分をゆるそうと思ってなさそう

      むー……うーん、うーん……それは、生きづらい(笑)。

      ニガウリ、芽が出なかったんですよ。いつもとやり方を変えたせいなのか……もしかして酒のつまみとして煎ったヤツだったのか?

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